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ムスチスラフ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公) : ウィキペディア日本語版 | ムスチスラフ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公) ムスチスラフ・スヴャトスラヴィチ(、? - 1223年5月31日)は、チェルニゴフ公スヴャトスラフ(ru)とマリヤ(ポロツク公ヴァシリコの娘)との間の子である。コゼリスク公:1201年 - 1216年または1219年。チェルニゴフ公:1216年または1219年 - 1223年。聖名パンテレイモン〔Зотов Р. В. О черниговских князьях по Любецкому синодику и о Черниговском княжестве в татарское время. — С. 69-70.〕。 ==生涯== 正確な誕生年については不明である。史料における最初の言及は1182年の記述である。1191年にポロヴェツ族への遠征に参加した〔Татищев В. Н. История Российская. — Т. 3. — С. 152.〕。1201年に分領公国としてコゼリスクを受領した〔Войтович Л. Ольговичі. Чернігівські і Сіверські князі 〕。なおムスチスラフが初代のコゼリスク公である。『ニコン年代記(ru)』によれば、ムスチスラフは、1219年には既に、兄のチェルニゴフ公グレプに変わってチェルニゴフ公として言及されている。ただし正確な2人の交代時期は不明であり、おそらく1216年以降とみなす説がある。 1223年、モンゴル帝国軍がポロヴェツ族の地に侵攻すると、ポロヴェツ族のハン・コチャンは、義理の息子であるガーリチ公ムスチスラフらに支援を要請した。ルーシ南部の諸公はキエフに集まり、ガーリチ公ムスチスラフ、キエフ大公ムスチスラフ3世と、本頁のムスチスラフによる、三頭体制の連合軍を結成した〔Карамзин Н. М. История государства российского. — Т. III. — С. 484—486.〕。しかし、同年5月31日のカルカ河畔の戦いでルーシ連合軍は敗北し、多くの公が死亡した。ムスチスラフもまた、長男ドミトリーと共に殺害された。
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